猫撫で草紙 その2
taramama presents <猫撫で草紙 その2>
その年の夏はそれほど暑さ厳しくなく、寧ろ冷夏であったように記憶している。
八月に入ったばかりのある日、『すず』が二階のベランダに遊びに来ていた。
しかし、いつものように透き通った声で挨拶してくれない。私の顔をじっと見な
がら、口は「にゃおわん」と開くのだが声を出さない。猫の方も半ばいらつきな
がら、何かを訴えるようなまなざしだ。何度も何度もジーンズの裾に擦り寄り、
しゃがんだ私の周りをぐるぐると廻る。頭を撫でながら様子を見ていたが、
どうやら声が出なくなってしまったようなのだ。しかし、こういう時、どうするべ
きか分からない。子供の頃、犬は何匹か飼ったことがあるが猫に関しては全
くの素人だ。
考えた挙句、思い浮かんだのは「牛乳を少し飲ませてみる」ことだった。
が、舌を出してほんのちょっと舐めるだけで、すぐに苦しそうに吐いてしまう。
今思えば、『毛玉詰まり』だったと推測できるが、当時そんなことは知る由も
無く、唯、おろおろするばかり。
このコは病気なのかもしれない、医者に連れて行かなくてはならないのかもし
れない。でも、ウチの猫ではないからそんな勝手なことはできない。つい先日、
向かいのRさんに、『すず』の飼い主さんは三軒隣のBさんだと教えられたの
だった。
彼女に会うまで『猫』については正直なところ無関心であった。自分は『犬派』
であるとさえ思い込んでいた。散歩の道中、匂いを嗅ぎながら近付いて来るワン
ちゃんたちに親しみを覚えることはあっても、猫たちの場合はその身体に触れさ
せてくれることもなく、さも、
「わたくし、いそいでますので」
とでも言わんばかりにするするすると通り過ぎて行ってしまい、その辺の茂みに
隠れてしまうのがオチだ。もしかしたら今まで、猫族様に触れたことさえ無かっ
たかもしれない。猫好きの友人から飼い猫の話を聞かされても格別興味をそそら
れなかったし、寧ろ、愛猫の自慢話というかのろけ話というかが熱を帯びてくる
と、「もしかしたらこの人、猫依存症なんじゃないかしら?」と、相手の精神状態
を邪推した程である。
翌朝、ベランダに来ていた『すず』に、再び牛乳を飲ませてみると今度はきれい
に平らげた。声は依然として出ないようだが、幾分落ち着きを取り戻したようだ。
飼い主さんの家に行って相談してみようかとも思っていたが、もう少し様子を見
ることにした。三軒先のBさんとはほとんど会うことも無いので何となく躊躇っ
てしまう訳で。でも、ああどうしよう、もし手遅れなんてことがあったら……
と愚図愚図しながら迎えた次の日の朝、またまた牛乳でもてなしていると、
「あー、あー」
と二回、小さな声で鳴いた!
驚いた。
驚いたので、しゃがんだまま尻餅をついてしまった。尻餅をつくと全身の緊張が
ゆるゆると緩んでいく。よかったよかったよかったほっとした。よかったねえ、
すずちゃん。
『すず』がしっかりとこちらを向いて発したその鳴き声は、
「おばちゃん、心配してくれてどうもありがとう」
と言っているようにしか聞こえない。ひと月前から患っていた肋間神経痛の痛み
も、彼女の声を聞いた途端、すーっと治ってしまった。奇跡だ。
その翌日、台風の影響で雨が降り、そのせいなのか彼女の訪れは無かった。
次の日も見かけなかった。いつのまにか猫のことが気になる生活になってしまっ
ていた。三日目の朝、ベランダに彼女がやって来たのを認めると、そそくさと、皿に
入れた牛乳を持って行って飲ませた。もちろん、綺麗な声で鳴いてくれた。その
夕方、ピアノの練習を終えて近くのスーパーに買い物に出ると、彼女の『実家』
であるBさん宅の門の脇で、ひとり静かに箱坐りしていた。
そして、たったそれだけのことをその日の日記に書いた。
つづく















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